武蔵の庭園


武蔵とのかかわり


天下の剣豪・宮本武蔵(1584-1645)の出生地については諸説ありましたが、最近では現在の高砂市米田であると認知されています。 二刀流を操り、伝説の強さを誇った武蔵。 生涯特定の藩に属せず、全国を旅しながら剣の道を究めたのですが、特に 出生地である播磨地域には多くの足跡を残しました。 元和3(1617)年に着任した初代城主小笠原忠政に招かれ、元和4(1618)年、ここ明石を訪れます。




そして、、明石の町割りや城内樹木屋敷の設営に関わりました(「明石町造ハ小笠原右近太夫忠政公御代、元和年中開発也、宮本武蔵ト云士、町割有之ト云、町並裏行十六間也」『明石記』 享保5(1720)年頃)。当時の町割りは、軍事戦略の一環でもありました。その大役を天下の剣豪が担ったのです。 武蔵が整備に関わった町は、全国で唯一、明石のみ。




樹木屋敷

武蔵は、明石で兵法以外の新たな才能を発揮します。「作庭」です。 藩主小笠原忠政(のちの忠真)のために、西の捨曲輪(のちの山里曲輪)の樹木屋敷を手掛けたとされています。 樹木屋敷とは、城主の遊興所。 「散策・休憩・客のもてなし」のために作られた場所です。 山里郭(やまざとくるわ)とも呼ばれたように、豪華な大名庭園というよりは、質素な風情であったと想像できます。

御茶屋(おちゃや=休憩所)・鞠の懸り(まりのかかり=蹴鞠をする場所)・築山(つきやま)・泉水・滝などがあったことが小笠原家に伝わる「清流話」に記録されています。

武蔵の庭の再現

かつての樹木屋敷は、現在の明石公園陸上競技場(きしろスタジアム)のある場所に作られました。 宮本武蔵が細部にまでこだわった「武蔵の庭園」の再現にあたり、池と樹木に囲まれた乙女池の周辺で整備することとなりました。
樹木屋敷については、資料がほとんど残っていないため、大正11(1922)年に施工された乙女池周辺の造成記録を基に、専門家委員会の検討を経て設計書が出来あがりました。


整備概要


対象面積約1ha(10000㎡、ひぐらし池、乙女池を含む)
屋敷門木造 間口1間
御茶屋木造 37㎡
鞠の懸かり四隅にサクラ、ヤナギ、カエデ、マツを植樹
その他大滝、小滝、中嶋、石橋
あずまや木造 2.8m×2.8m


武蔵の庭園パンフレット

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