城跡

徳川の「鬼孫」が威信をかけた、築城プロジェクト

西国諸藩に対する備えの要所である「明石城」の築城。
元和4(1618)年、徳川二代将軍秀忠が命じた、中央政権による国家プロジェクトでした。
建設費用は銀1000貫目、今でいう31億円規模の一大事業です。

初代藩主は、小笠原忠政(1596~1667年、後に忠真と改名)。
織田信長と徳川家康を曽祖父に持つ、戦国のサラブレッドです。
家康は、大坂夏の陣での忠政の奮迅ぶりを「わが鬼孫なり」と絶賛しています。

築城には、姫路城主・本多忠政(小笠原忠政の義父)が指導役となり、立地や設計に深く関わりました。
小笠原・本多の両忠政2人が、建物の配置を決めたと記載された絵図も残っています。
城主忠政は、元和5(1619)年正月に着工、塀や門、家造りを担当します。
その年の8月には、本丸・二の丸・三の丸の石垣や塀も完成。
高石垣や、本丸・二の丸・三の丸は門で区切るなど、戦闘を強く意識した構造で、西国街道と明石海峡を監視する宿命を色濃く反映した城であったことが窺えます。


姫路城を越える城域面積

正保城絵図・播磨国明石城絵図

築城当時の「外堀」は国道2号線付近にありました。
明石駅北口を出てすぐの現お堀は、当時の「内堀」です。
今もなお残る「旧:内堀」と、現国道2号線付近にあった「外堀」の間に武家屋敷が並び、外堀から海側に町屋地区がありました。
町屋を含めた城下町は、姫路城に匹敵する面積を誇り、外堀までの城域は姫路城よりも広大だったとされています。
(※お城=天守閣というイメージが強いですが「城域」も含めて「お城」を指します。)

残念ながら、築城12年後の寛永8(1631)年正月、三の丸台所からの出火により本丸は全焼。
かつての本丸は、金箔が張り巡らされ、襖絵には松や小鳥が描かれていました。
絵師は、安土桃山時代を代表する絵師「長谷川等伯」の弟子、「長谷川等仁」の作。
まさに、贅を尽くした豪華な黄金御殿だったのです。



雅名 喜春城

明石城は当初、本丸に鶴がいたことから「鶴の城」と呼ばれていました。
後に儒者・片山兼山によって「喜春城(きしゅんじょう・きはるじょう」と改められます。
中国のことわざ「天子南面貴春」(春、天子は万物が育成を貴び、城主もまた人民の生育を喜び、仁を以て政に尽くす)から取られ、「貴」を「喜」という「好字:めでたく縁起のいい意味の漢字」に置き換え、名付けられたとされています。
「春の明石城が素晴らしい」ことも、この別名の由来と言われています。

その他に「播州明石錦江城」とある絵葉書が残っていることから、「錦江城」の別名もあったことが分かっています。
馬徂常の詠んだ「岷峨山の下、錦、江を成す」という古詩から、明石城を岷峨山になぞらえ、明石港を「錦江」と呼ぶようになりました。
「錦の入江を望む城」というところから、観光名所用に「錦江城」が使われたのではないかと考えられています。


両櫓について

明石を見守り続ける「巽櫓(たつみやぐら)」と「坤櫓(ひつじさるやぐら)」。
約400年前の築城当時から残り、まさに ” 時のまち・明石 ” を象徴する存在です。
全国に12基しか存在しない現存三重櫓のうちの、貴重な2基であり、国重要文化財に指定されています。

櫓の名は方位を表し、坤(ひつじさる)は本丸の南西・巽(たつみ)は南東にあることに由来します。

天守は建てられませんでしたが、長さ380m、高さ20m超の石垣の上に築かれた本丸の四隅にの三重櫓は勇壮を誇りました。
城域も当時のままに保全されています。




巽櫓(たつみやぐら)

本丸の南東端に築かれた三層の隅櫓である。
桁行き5間(9.09m)、梁間4間(7.27m)、高さ7間1寸(12.19m)、各層の高さは約3m。
妻部を東西に置く入母屋造(いりおもやづくり)で、南を向く。


【 南 面 】

巽櫓(南面)

第一層:装飾性の高い弓なり状の形が特徴の、華麗な唐破風(からはふ)
第二層:優美な三角形の出窓、千鳥破風(ちどりはふ)を据え
第三層:緊張感のある、強い直線でおさめている。



【 東 面 】

第三層の妻に対して、第一層に千鳥破風を置き、第二層は直線としている。


【 西 面 】

巽櫓(西面)

東面の造りと同様であるが、第二層、第三層には窓がない。


【 北 面 】

城内向う面で第二層、第三層には西面と同じく窓がなく、第一層には入口がある。


【 用 材 】

一国一城令により取り壊さることとなった、船上城から移築された。
寛永の大火により焼失し、再建。
昭和57(1982)年に行われた大改修の際、柱や垂木(たるき)、梁(はり)に使われた全ての木材は、規格品により統一され、当時の最新技術で新築された。
廃材は一切使われていないことが、阪神大震災後の平成12(2000)年の復旧工事の調査で明らかになった。
松材が多く使われている。




坤櫓(ひつじさるやぐら)

桁行6間(10.90m)、梁間5間(9.09m)、高さ7間2尺9寸(13.60m)、入母屋造(いりおもやづくり)。

巽櫓よりも一回り大きく、天守閣が造られなかった明石城では、最大規模の櫓。
天守台のすぐ南にあり、実質的には天守閣の役割を果たしたとみられる。
小規模な国内の城の天守よりも、大きな規模の櫓である。
棟の向きが巽櫓とは異なるのは、あえて向きを揃えないことで、一方向から弱く見えないよう=攻められにくいよう配慮された為である。
また、平側(建物の長い側面)が西側を向いている。
明石より西の大名を監視し威風を示すため、南西側の坤櫓を大きく造り、さらに壁面積の広い平側を西向きに建てたとされる。

京都の伏見城から移築されたとの記録が残り、昭和57(1982)年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが解明された。
これにより、伏見城からの移築説が裏付けられた。


【 南 面 】

坤櫓(南面)

第一層:三角形の小窓である千鳥破風(ちどりはふ)を据え
第二層:弓なり状の豪奢な唐破風(からはふ)とし
第三層:入母屋(いりおもや)で押さえている。

【 東 面 】

坤櫓(東面)

城内に向く面で、第一層は入口と南隅に窓がある。
軒先については、
第一・三層:力強い直線
第二層:弓なり状の唐破風(からはふ)の上に三角形の千鳥破風(ちどりはふ)が重なる二重破風の豪華なつくりである。

【 西 面 】

西面は播磨平野を守衛する重要な面にあたり、巽櫓の南面を一回り大きくした造りで、天守閣に代わるにふさわしい威容がみられる。

北 面 】

城内に向く北面:窓は少なく、第一層、第三層にのみ窓がある。



【 用 材 】

築城時は伏見城より移築されたとの記録が残っているが、寛永の大火の際焼け落ち、現存櫓は再建したものと考えられている。
木目のそろった松の木が多く使われ、移築前の豪華なつくりが偲ばれる。


明石城についての詳しい解説動画

幾多の災害に遭いながらも、そのたびに巧みな技術によって修復が行われ、約400年前の姿を現在もなお色褪せることなく伝えている明石城。
築城の歴史、両櫓の詳細、歴代藩主、ゆかりの地、見どころ、修復の様子など、見ごたえ満載。明石城の全てを網羅した動画内容です。
制作:一般社団法人 明石観光協会


明石城の歴史パンフレット

明石城の歴史

明石城築城の歴史から、歴代藩主、建築装飾等をまとめたパンフレットです。歴代城主や家紋一覧、建築装飾に関する詳細な解説も掲載しております。

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築城400周年記念事業


平成31(2019)年、築城400周年を迎えた明石城。
兵庫県×明石観光協会×明石公園が一丸となり、様々な記念事業を展開しました。
明石城築城400周年記念事業の実施概要については ⇒ こちら

明石城400周年記念公式サイト

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画像提供:(一社)明石観光協会



明石城 3DCG PR動画

播磨国明石城絵図(はりまのくにあかしじょうえず)を基に、400年の時を超えて明石城の姿が3DCGで蘇りました。
現在の公園正面入口には、かつて太鼓を打って時を知らせた太鼓門。
野球場がある場所には、藩主が生活していた居屋敷郭御殿。
陸上競技場がある場所には、宮本武蔵が造った樹木屋敷と呼ばれる藩主の遊興所。
現在は失われましたが、本丸にあった乾櫓(いぬいやぐら)と艮櫓(うしとらやぐら)を再現。
壮大なスケールと臨場感あふれる映像をぜひ。

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